涙目キューピー「よかったら、共倒れ?」(2015/04/17-19 阿佐ヶ谷シアターシャイン)
涙目キューピー第三回公演シリーズ女の場末力「よかったら、共倒れ?」
期間:2015/04/17(金)~19(日)
会場:シアターシャイン(阿佐ヶ谷)
演出:都上々
出演:塩谷麻美、三明真実、丹野薫、藤田彩子、鏑木雄大、荻窪えき
三明真実(みはるまさみ)さんが出演する舞台涙目キューピー第三回公演シリーズ女の場末力「よかったら、共倒れ?」を観に、阿佐ヶ谷のシアターシャインに行ってきました。
期間:2015/04/17(金)~19(日)
会場:シアターシャイン(阿佐ヶ谷)
演出:都上々
出演:塩谷麻美、三明真実、丹野薫、藤田彩子、鏑木雄大、荻窪えき
三明真実(みはるまさみ)さんが出演する舞台涙目キューピー第三回公演シリーズ女の場末力「よかったら、共倒れ?」を観に、阿佐ヶ谷のシアターシャインに行ってきました。
その三明真実さんが演じるドレミの衝撃的な場面で始まったこのお芝居。ぐちゃぐちゃに絡まった糸を解きほぐしていくと、その核にあるものは、この芝居にも再三出てきた「チェンジされる」ということではないかと思う。
「チェンジされる」=「自分が代替え可能な存在である」ということはどういう状況で生まれるか。それは、「契約」によって成り立つ関係性においてである。そして「契約」の多くは「お金」によって交わされる関係性である。「お金」によってやりとりされる関係性においては、「お金」との交換によって得られるモノやサービスこそがすべてであり、そこに介在する人間は「誰だってよい」のである。そういう関係性の中では、自分で自分を「チェンジ可能な」「誰でもよい」存在としか認知できない。
「誰だってよかった」。無差別殺人を犯したひとたちがしばしば口にするこの言葉。多くのメディアはこれを理解不可能なものと位置づけて「加害者の心の闇」などという常套句を使って思考停止をしてしまうが、その答えは極めてシンプルで、自分で自分を「自分が誰でもよい」存在としかみなされたことがないから、他人もまた「誰でもよい」存在としかとらえることができないからではないだろうか。自分を「かけがえのない」存在だと思えなければ、他人もまた「かけがえのない」存在であると、思うことができない。
自分を「チェンジ可能な」「誰でもよい」存在ではない、つまりは「かけがえのない」存在だと、そういう認知を自分自身で自分に与えるためには、自分が、誰かにとってに自分が誰にも変えられない大切な、唯一無二の存在である、「かけがえのない」という、そんな「誰か」の存在が不可欠である。そのときの誰かは「誰でもよい」存在では決してなく、そして自分自身も「誰でもよい」存在では決してなくなる。そこでようやく自分が「かけがえのない」存在になることができる。
それは「契約」によってもたらされることは決してない。「契約」の中でしか関係性を作れない状況においては、自分自身が「かけがえのない」存在になりえない。そして、代替え可能なものは、「使い捨て」られる。そんな状況の中で、自分がかけがえのない存在であり、そしてまた誰もがかけがえのない存在であると、想うことなど、無理な相談だ。
私が最近観たある芝居で感じたことは、「もし生きることに意味があるとすれば、それは自分の大切なひとよりも1日も長く、いや1秒でも長く生きることである」ということだった。つまりは、そうやって生きていれば「自分が自分の大切なひとを看取る」という場面に必ず出くわすわけで、そういう覚悟をもつことが生きる、ということになる。
この芝居での「共倒れ」とは、「自分が自分の大切なひとを看取る」ことがない状況を指す。つまりは、大切なひとと同時に死ぬ、ということである。しかし、それは極めて難しいことだ。自然死でこういう状況は生まれない。生まれるとしたら、たとえば二人が乗った飛行機が墜落するような事故によって同時に死ぬか、心中を図るしかない。しかし、心中を図ったとしても、その意に反してどちらかが生き残ってしまうことは、あり得る。そう考えると、「共倒れ」という状況が生じるのは奇跡のようなもので、結局、2人のうちのいずれかは、「自分が自分の大切なひとを看取る」という覚悟をせざるをえなくなる、ということだ。
この芝居の作家は、「共倒れ」という状況が起こりにくいことを十分すぎるほど意識している。だから、もうひとりの主人公を生き残らせた。しかし、「自分が自分の大切なひとを看取る」という覚悟ができていない彼女は、「孤独」というものを受け入れることができない。「孤独」とは「自分が自分の大切なひとを失う」後にくる状況である。「孤独」を受け入れることができず、「孤独」に向き合えなくなるとどうなるか。それは、その「孤独」から逃れるために「誰でもよい」存在を求めてしまうということだ。
「誰でもよい」という不幸な状況は「契約」という関係性だけから生まれるものではない。「孤独」から逃れたいという気持が「誰でもよい」という不幸な状況を再生産してしまう。私はこの物語の結末をそう捉えた。「誰でもよい」という不幸な関係性の連鎖。それから逃れようとして、結局は「共倒れ」することもかなわず、その後に訪れる「孤独」にも耐えきれず、「誰でもよい」という不幸な関係性の連鎖が回り続ける。
「自分が自分の大切なひとを看取る」という覚悟は、その後に来る「孤独」を受け入れる覚悟を持つ、ということなのだ。
この芝居で私が一番気になった、というか、嫌悪したのは、前作に続いて、終盤に不審者が乱入してきてこの物語を完結させてしまう展開だ。自分の紡いできた物語を「暴力」によって完結させるような作風に私は全く共感できないし、感心もしない。こういう展開はもう見飽きた。次回は違う料理を出してきてほしいものだ。
この物語の絡まった糸を私なりに解いていこうとしていたら、こういうグルグルとした想いに陥ってしまった。肝心の三明真実(みはるまさみ)さんのことについて何も書けていない。でも、今日はここまで。次回に持ち越し。
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